あまり空気を読まずに書いております。
そこを理解して読んでいただけると助かります。
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エキサイトしすぎて論理が破綻しているblogを見つけた。
言いたいことや気持ちは理解できなくもないが、文章がおかしいのでつついてみる。 via 過ぎ去ろうとしない過去 「米兵が悪いのは当然として」「少女にも責任が」 38歳のアメリカ海兵隊員が、沖縄県北谷町で14才の女子中学生をレイプした事件が起きた。 この文章は夜中に繁華街を出歩き、送ってあげるととの言葉にホイホイついて行った女子中学生に対してうかつだとか、少女にも責任があるという連中に対して批判している。 引用開始 このような事件で「被害者少女にも責任が」などと言ってしまうのはセカンドレイプも甚だしく鬼畜のなせる業である、ということは自明なので論証は不要と思っていたのですが、そのような前提は案外共有されていなかったようでびっくりです。 引用終了 二行目、自明ではない。 これは筆者の思い込みである。 被害少女にも責任があるということ -> セカンドレイプであり鬼畜 ということは推論規則で導出できない以上、 この自明という言葉は本来の意味ではないと考えてよい。 この時点でこの「自明」という言葉は 何でも自明って書くなと言われているように持論が正しいと読者に思い込ませるための道具という可能性が発生する。 次。 引用開始 「責任がある」という言い方で彼らが言いたいのは、少女も「悪い」ということでしょう。もっと言えば、夜の街で遊んでて、声をかけた米兵についていったらいたらレイプされても仕方が無い。しかし、「仕方が無い」とはどういう意味でしょうか。当然「日本で地震が多いのは仕方が無い」の「仕方が無い」とは区別して考えなければいけません。なぜなら、地震は天災ですが米兵は意志をもった人間であるからです。とすれば、この場合の「仕方が無い」とは、お前にはレイプされるだけの理由があるんだぜ、レイプされても「仕方が無い」ことをしたんだぜ。という意味にしかなりえません。 つまり、夜の街歩く→レイプには正当性が存在するということになってしまいます。 引用終了 天災の話は関係がない。 なぜなら意志があるか否かがその後の話に影響していないからである。 意志があるからどうなんだ? 意志があるという話をレイプされても仕方がない結論に帰着できない。 これは人間には意志があるのだから犯人の努力によりレイプをしない方向性に持っていくべきであると理解してほしいのか? 読者にそこまで要求するのは無理がある。なぜならそんなことは書いていないのだから。 どうもこの辺で筆者の脳内で魔法か何かが炸裂したようです。 「レイプされても」というくだりから「お前」は「少女」と同義であることが分かりますが唐突過ぎます。 次。 引用開始 まあ何が言いたいかと言うと、白人に席を譲らなかったら逮捕されるのが理不尽なのと同様に、夜に街を遊んでいたらレイプされるのも理不尽なわけです。しかし、社会の理不尽さには文句を言ってはいけない決まりが日本社会にはあります。特にこの沖縄の件では、藪をつつくと沖縄にある米軍基地の比率は75%であるなどの理不尽さが出てきてしまうので、これはなんとしても「レイプ犯罪なんてなくなりようないんだから自衛するのが賢明でありゲンジツシュギテキであるのでそうしなかった被害者はバカ」という話に持ち込まなくてはいけません。そこで少女の「責任」という概念をでっちあげるのです。そして米兵は地位協定で安全なのは無視。被害者少女はセカンドレイプ。 引用終了 「という話に持ち込まなくてはいけません」について。 主語が不明。思い込みの可能性あり。 推理小説で犯人がよく言う台詞「それはタダの推理です。証拠を示してください」状態です。 これに限らず、「〜に違いない」というスタンスの文章が多すぎます。 最後、 引用開始 というか「米兵が悪いのは当然として」と留保しておけば少女をディスってもいいのだと考えている自称中立厨があまりにも多いので、なんとか分りやすくそのような議論には問題があると伝えられないかを頑張ってみました。 引用終了 と言っておきながら思い込みの可能性がある持論を展開し、最終的に 引用開始 まったく、「加害者の人権ばかり保障されて被害者の権利がないがしろにされる」世の中であります。一般人の方はもっと怒ってよろしいのでは。 引用終了 で締めくくる。 〜という議論に問題があることを伝えると言っておきながら同意を求めて終了です。 ちなみに最後の引用は結論が出た後の簡単なコメントなどではなく、本当にこれで論理が終了しています。終始一貫していません。 この記事の文章全体(もしくは筆者)の問題点は セカンドレイプが良い、悪いの感じ方は人によって異なる。 それを認めず、セカンドレイプは絶対に悪と信じた人間が 論理的に導出したわけでもない持論(セカンドレイプは悪)を いかにそれが正しいのかということを人に伝えたいあまり、 それ(論理的)っぽい味付けをして発表したことである。 治療法 持論が絶対に正しい!正しい!正しいの!と思う前に、 ひょっとしたら間違っているのではないかと疑ってみる癖をつける。 私なら以下のように書く。 「セカンドレイプというような死人にムチ打つようなことは少女が可哀想だからやめようよ。」 以上。 PR はてなより引用 引用開始 KY=空気(Kuuki)・読めない(Yomenai) の略。 空気を読めない人を差して使われる。 また、転じて「空気読め!」の意で、耳元で「KY」と囁くなどの用法もある。 反対語:KYR=空気(Kuuki)・読める(YomeRu) 引用終了この言葉を考えついた、人間、もしくは集団のアホなところは KYという略称では空気が読めるのか、読めないのかこの略称だけで判断できないところである。 空気読め・・・・・「る」のか、「ない」のかどっちなんだ!? 途中までで言葉をやめることで否定にも命令にも使えるのだろうが その理屈でいうと何でも略せることになる。 動詞の活用いらんじゃん(ノ∀`) 略称に多義性を持たせるなんてなんとややこしいことを考えたのだろう。 言葉の作者を適当に叩いたところで本題である。 KYという言葉はは全体主義の表れである。 日本になじみのある例を挙げるとそれは戦時中の国家総動員法下の状態である。 大雑把に言うと全体のために個人の権利、自由はささげるべしという考え方である。 そこにはその考え方になじめない人間の排除も含まれている。 それが端的に現れているのがKYという言葉である。 全体主義が面倒なのは民主主義と誤解されがちなところである。 みんなという多数派の空気が悪くなるので少数派のお前は黙っとけ! これは多数決で勝った多数派が主導権を握るという点では民主主義と同じだが、 多数派が多数派の為に少数派に命令している点で異なる。 多数派は少数派の「空気読めない」状態を多少なりとも許容する気がないのである。 「おまえってほんとKYだよな~」 には 「空気読めよ。馬鹿が。」 程度の意味で、そこには非難の意味しかない。 ただし程度問題であるのでKYという状況全部が駄目というわけではない。 それにしても個人主義と呼ばれる現在の若者が 昔の日本における村社会のしきたりのようなものを持っているというのは、 興味深い。
ほとんどファーストフード産業にはお世話にならないのだが、気になったので同じメニューを頼んで比較してみた。
買ったもの:ハンバーガーセット(ポテト、紅茶の一番小さい奴)、てり焼きバーガー
両者の味について 一言で言うとどちらもおいしい。 ただし私は高級ホテルのディナー(最近食べた)を食してもコンピ二の食パンをかじってもどちらも「おいしい」と言える種類の人間なのであまり当てにならない。 要するに食べること自体が喜びなのです。どっちがうまいとか実にどうでもよい。どっちもおいしいでいいじゃん。大体他人のあれはうまくてこれはまずいという評価は味以外の要因が混じっていることがよくあるので(店の雰囲気とかじゃなく、見栄というか何というか)やっぱりどうでもよい。以上。
これによるとTOEICの点数を上げるには大体この程度かかるらしい。
もちろん個人差、年齢、学習の動機などによって違いはある。 これによるとTOEICを全力でやって200点(確か全問勘で書いたら250点のはず)の人間は900点を叩き出すまでに1750時間かかる。これはどの程度の時間なのか? 一日の活動時間はだいたい15時間程度(7時起床、12時就寝、食事などを除く)なので割ると116日と半日となる。 さすがに3ヶ月も休みをとれる人間は稀なので、1ヶ月を28日で日曜から始まり、土曜に終わるとし、土日は15時間、平日は3時間勉強に当てられるとすると1ヶ月の学習時間は180時間。 つまり通常の生活をおくっていても本人の努力しだいで最低レベルから最高レベルまで10ヶ月弱でたどり着くことができる。 ただしその間 より良く生きるために勉強するのではなくて、より良い点数をとるために生きる 位の覚悟は必要かもしれない。 TOEIC200点の人間が900点をとるとその後の人生が大きく変わるかもしれないが、 人生を変えるというのはこれだけの修練、努力が必要なのだろう。 というより10ヶ月この苦行に耐えてやり抜いた時点でその後の人生は大きく変わる気もする。 最近(TOEICではないが)勉強を始めて休日一日あたり10時間も勉強が出来ない自分はそう思う。
確か8年位前に実家の近所の本屋で立ち読みしたSFの本に書いてあった。
「工学の最終目標は素材空間である」 素材空間をGoogleで検索してもそれらしいものがヒットしなかったので 記憶とその補完(大分自分の見解も入れている気がするが)で書く。 工学はより便利であることを追求する学問である。 それは最終的には願ったことが瞬時にかなうことを目標としていると言い換えても良い。 つまりこれは人間の欲を瞬時にかなえるということである。 ある種の問題はこの方向性で解決するだろう(おいしいものを食べる、所有する、楽しいことをする、仕事をしなくても生活が出来る -> 仕事上での重いストレスを感じないなど)。 しかし人間の欲は自分に対してのみ向けられているわけではない。 他人が必要な場合もある(性欲、優越、承認、顕示、支配、自立、攻撃、親和、拒絶など)。 これを達成しようとした場合に衝突が起きる。 自分が他人よりも優れているということを全員が満たすことが出来ないからである。 そこでこの本に書いてある「素材空間」というものがでてくる。 一種のパラレルワールドで自分用に作られた世界に他人のコピーを用意する。 そこに自分も入る。 他人のコピーは自分が優越感などを得るためのだしにつかうのである。 もちろんその世界の物理現象は自分の思いのままである(これが素材空間の名称のもともとのコンセプトだろう)。 これが人間の数だけ存在する。 当時は計算機が一般にそれほど浸透していなかったので 現在の考え方で言えば 人間は自己の肉体を捨て広大なP2Pネットワーク上で生きる。 その計算機上でこの素材空間は実現されることになる。 これでみんなの欲求が満たされた世界が出来上がる。 ---------------------------------------------------------------- それは幸せかと聞く人間が出そうなので予防線 それが幸せかどうかは工学の専門範囲ではないので 心理学、哲学屋や宗教家に聞くと良い。 |
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プロフィール
HN:
パパ
年齢:
43
性別:
男性
誕生日:
1981/10/11
職業:
ネットワークエンジニア(のはず)
自己紹介:
すみませんが、mixiの方を見てください。
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